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戦後、多くの企業が進出して工業都市をかたちづくった鈴鹿市。そんな企業の中に、当時世界最高の二輪レース“マン島TT”の制覇や“スーパーカブ”の大ヒットなど、飛躍的に成長しつつある企業、ホンダ(本田技研工業株式会社)がありました。
同社が鈴鹿に工場だけでなくサーキットを建設することになったのは、創業者・本田宗一郎氏の「クルマはレースをやらなくては良くならない」の一声だったといいます。1962(昭和37)年に完成した鈴鹿サーキットでは数々の国際レースが開催され、世界の走りが観客や関係者を驚かせました。
レースできたえられた技術が市販車に生かされ、わが国の車やバイクはめざましい進歩をとげます。そしてモータースポーツを愛する人々も増加。走りたい者、マシンを造りたい者が鈴鹿に集まり、“モータースポーツのまち・鈴鹿市”が生まれました。
'70年代には現在につながる大きな動きがあります。四輪はフォーミュラカーの人気上昇、二輪は久々の国際レース・8耐のはじまりと大反響です。この盛り上がりを受けて'80年代には、市とモータースポーツの関わりが一層強くなります。8耐が大観衆を集め、官民一体となった受入れなど、市を挙げての取り組みが定着しました。このノウハウは、1987(昭和62)年からF1受入れにも生かされました。
また、多くの国際レースの開催は、SUZUKAとしての国際的な認知度を高め、「国際交流都市」構想やル・マン市との友好協力協定など、国際的な視野に立った動きにつながりました。
こういった歴史を積み重ね、鈴鹿市は「モータースポーツ都市宣言」を行うに至ったのです。 |
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